イタリア北部、ドロミテ山塊の麓にある小さな谷から、世界のクライミング界を変革するブランドが生まれるなんて、誰が想像できたでしょうか。1928年、たった一つのスツールと作業台から始まったラ・スポルティバ(LA SPORTIVA)は、今や世界70カ国以上で愛される登山靴ブランドへと成長しました。
アダム・オンドラ、トミー・コールドウェル、アレックス・オノルドといった世界トップクライマーたちが、なぜこぞってラ・スポルティバを選ぶのか。その答えは、創業者ナルチソ・デラディオが残した「私は決して止まらない」という言葉と、吹雪の夜に交わされた一つの約束に隠されています。
96年にわたって4世代の家族が守り続けてきた哲学、革新的な技術開発への飽くなき挑戦、そして240名の職人たちの手仕事。この記事では、単なる靴メーカーではなく、山への深い敬愛と情熱を形にし続けるラ・スポルティバの真の姿に迫ります。
ラ・スポルティバの原点は吹雪の夜の奇跡的な約束だった
イタリア北部の山岳地帯で起きた一つの奇跡が、世界的な登山靴ブランドの誕生につながるなんて、誰が想像できたでしょうか。ラ・スポルティバの創業物語は、まるで映画のような感動的なエピソードから始まります。家族への愛、地域への感謝、そして山への情熱が織りなす物語を紐解いていきましょう。
曾祖母の命を救った村人たちへの恩返し
創業者ナルチソ・デラディオの人生を決定づけたのは、彼の曾祖母にまつわる感動的な出来事でした。ある冬の夜、曾祖母がフィエンメ渓谷(Val di Fiemme)の森で吹雪に巻き込まれ、道に迷ってしまったのです。この危機的状況に、渓谷の住民たちは総出で捜索に乗り出しました。
凍えるような寒さの中、村人たちの懸命な捜索により、奇跡的に曾祖母は発見されます。足の凍傷を心配した彼女は、その場で神に誓いを立てました。
「もし無事に生き延びることができたら、家族の誰か一人は必ず、この恩返しとしてコミュニティのために登山靴作りに専念させます」と。この約束は、8人兄弟の5番目として生まれたナルチソの心に深く刻み込まれ、彼の運命を決定づけることになったのです。
たった一つのスツールと作業台から始まった小さな工房
1920年代初頭、ナルチソは故郷のテゼロに戻り、妻ルイジアと共に靴工房を開きました。当時の工房には、最低限の道具しかありませんでした。
しかし、ナルチソの胸には大きな夢が宿っていました。彼は青年期にヴェネツィアで石工として働き、コツコツと資金を貯めていたのです。その勤勉さと計画性が、後の成功への第一歩となりました。
最初は地元の林業者や農夫向けの頑丈な木靴や革製ブーツを手作りしていましたが、彼の野心はそこに留まることはありませんでした。質実剛健な作りと丁寧な仕事ぶりが評判を呼び、少しずつ顧客が増えていったのです。
ナルチソが抱いた「スポーツシューズ専門店」という大きな夢
1928年、ナルチソの人生に大きな転機が訪れます。ミラノ商業見本市への参加機会を得た彼は、他の靴店との差別化を図るため、革新的な決断を下しました。
自身の工房を「Calzoleria Sportiva(スポーツ靴店)」と名付けたのです。この「Sportiva」という名前には、従来の農民や木こり向けの作業靴ではなく、登山やスポーツに特化した専門的な靴作りへの転換という戦略的な意味が込められていました。見本市は大成功を収め、この日が公式的な事業活動の開始点となります。
ナルチソは単なる職人ではなく、真の革新者でした。彼は1926年にフィアット509という当時最新の自動車を購入し、ドロミテを訪れる観光客への交通サービスも提供していたのです。この経験から、登山客や観光客のニーズを深く理解し、より軽量で機能的な登山靴の開発へとつながっていきました。
「私は決して止まらない」というラ・スポルティバの哲学
創業者ナルチソ・デラディオが残した「私は決して止まらない、これが私の人生だ」という言葉は、今もラ・スポルティバの精神的支柱となっています。この哲学は単なるスローガンではなく、96年間にわたって受け継がれてきた革新への飽くなき挑戦と、山への深い敬愛を表現したものなのです。
農民靴からクライミングシューズへの大胆な転換
1980年代、ラ・スポルティバは業界の常識を覆す大胆な決断を下しました。当時まだニッチだったクライミングというスポーツに注目し、紫と黄色という革新的な色彩のクライミングシューズを発売したのです。この転換期には、多くの困難がありました。
しかし「勝利の直感」に導かれたこの決断は、結果として世界的な大成功を収めます。2005年にはクライミングシューズ市場で35%、高価格帯では驚異の65%という圧倒的シェアを獲得するまでに成長したのです。
ドロミテの山々が教えてくれるものづくりの本質
ジアーノ・ディ・フィエンメにある現在の工場は、まさにドロミテの山々に囲まれた場所にあります。この立地は単なる偶然ではありません。職人たちは毎日、窓の外に広がる険しい山々を眺めながら靴を作っているのです。この環境が生み出す特別な価値観があります。
ユネスコ世界遺産にも登録されているドロミテの自然は、究極のテストフィールドとして機能しています。開発した製品をすぐに実際の岩場で試すことができ、その過酷な環境での経験が、次の改良へとつながります。
「for your mountain(あなたの山のために)」というブランドの使命は、この土地との深い結びつきから生まれたものです。山と共に生きる職人たちだからこそ、山を愛する人々のための本物の道具を作ることができるのでしょう。
職人の60%がクライマーという驚きの事実
ラ・スポルティバの工場では、現在240名の熟練職人が働いていますが、その60%が自らもクライマーだという驚きの事実があります。これは偶然ではなく、ブランドの採用方針と企業文化が生み出した必然的な結果なのです。
クライマーである職人たちは、単に靴を作るだけでなく、使う人の気持ちを深く理解しています。微細なホールドでの足の感覚、長時間の使用での快適性、極限状況での信頼性など、実体験に基づいた知識が製品に反映されます。
クライミングシューズ1足の製造には4時間もの時間をかけており、これは機械化が進む現代において異例の長さです。しかし、職人たちは妥協することなく、一足一足に魂を込めて作業を続けています。自分たちが岩場で使うものだからこそ、最高品質を追求し続けるのです。
なぜラ・スポルティバは革新的技術を生み出し続けるのか?
伝説的クライマーのニール・グレシャムは「ここ数十年のクライミングフットウェアにおける重要な技術革新のほとんどすべては、ラ・スポルティバから生まれている」と断言しています。
この革新力の源泉は、専用のイノベーションセンターを中心とした研究開発と、世界トップクライマーとの密接な協力関係にあるのです。
参考:La Sportiva(neilgresham.com)
エッジをなくすという常識破りのノーエッジテクノロジー
1990年代後半、ラ・スポルティバは業界の常識を根底から覆す技術を開発しました。それがNo-Edge(ノーエッジ)テクノロジーです。従来のクライミングシューズには鋭角な「エッジ」がありましたが、この技術はそれを完全に排除するという革命的な発想でした。
ノーエッジテクノロジーがもたらすメリットは計り知れません。
開発者のジュリアーノ・ジェリーチが最初にこのアイデアを思いついた時、あまりにも時代を先取りしすぎていたため、実用化まで10年以上の歳月を要しました。しかし、その執念が実を結び、現在では多くのクライマーに愛用されています。
アダム・オンドラが左右違うシューズで9cを登った理由
現代最強のクライマーと称されるアダム・オンドラが、世界初の9c(5.15d)ルート「Silence」を初登した際のエピソードは、ラ・スポルティバの製品哲学を完璧に体現しています。彼は左足に剛性の高い「ミウラ」、右足に柔らかく高感度な「ソリューション」という、左右で異なるシューズを履いて登ったのです。
なぜこのような選択をしたのでしょうか。それは、ルートの特性に合わせた最適解を求めた結果でした。極めて重要なフットジャムのセクションでは正確性と剛性が必要で、急傾斜でのパワフルなムーブでは柔軟性と感度が求められたのです。
ラ・スポルティバが多様なモデルを展開している理由がここにあります。同じ一本のルートですら、異なる課題には異なるツールで対応する。この「システム」アプローチこそが、トップクライマーたちから絶大な信頼を得ている理由なのです。
1足に4時間かける手作業へのこだわり
現在もジアーノ・ディ・フィエンメの7,000平方メートルの工場で、240名の熟練職人が年間22万足を製造しています。驚くべきことに、クライミングシューズ1足の製造には4時間もの時間をかけているのです。これは機械化が進む現代において、異例とも言える長さでしょう。
なぜここまで手作業にこだわるのか、その理由は明確です。
Futuraモデルの開発では72回、Geniusモデルでは60回ものプロトタイプを制作したという事実が、このブランドの妥協なき姿勢を物語っています。
世界のトップクライマーがラ・スポルティバを選ぶ本当の理由
数々の歴史的な登攀で使用され、世界中のトップクライマーから絶大な信頼を寄せられているラ・スポルティバ。その理由は単なる製品の優秀性だけではありません。クライマーたちとの深い対話から生まれる製品開発、そして彼らの挑戦を支え続ける姿勢にこそ、真の価値があるのです。
トミー・コールドウェルと作り上げた「TC Pro」の誕生秘話
伝説的クライマー、トミー・コールドウェルとラ・スポルティバが共同開発した「TC Pro」には、特別な物語があります。このシューズは、花崗岩のビッグウォールにおける一日中続く快適性とハイエンドなパフォーマンスという、相反する要求に応えるために生まれました。「TC Pro」が登山史に刻まれた瞬間があります。
開発過程では、コールドウェル自身が何度もプロトタイプをテストし、細かな改良を重ねていきました。彼の要求は厳しく、妥協は一切許されませんでした。この製品は単なる道具ではなく、クライミングの歴史の一部となったのです。
K2初登頂の英雄が認めた技術力
1954年のK2初登頂は、イタリアにとってエベレスト初登頂に匹敵する国家的偉業でした。実は、アキッレ・コンパニョーニとリノ・ラチェデッリが履いていたブーツはドロミテ社製でしたが、この歴史的快挙の後、ラ・スポルティバは英雄リノ・ラチェデッリとパートナーシップを締結したのです。
ラチェデッリはブランドの重要なアドバイザーとなり、シグネチャーモデルを共同開発しました。彼がラ・スポルティバを選んだ理由は明確でした。世界で最も困難な山を制した経験を持つ彼が認めたのは、単なる技術力だけでなく、山に対する真摯な姿勢と、クライマーの声に耳を傾ける開発姿勢だったのです。
この提携により、ラ・スポルティバはイタリアの優れたメーカーから、正真正銘のワールドクラス・アルパインブランドへと飛躍を遂げました。
クライミングシューズ市場で65%のシェアを獲得した実力
2005年のデータが示す数字は圧倒的です。ラ・スポルティバはクライミングシューズ市場全体で35%、100ドル以上の高価格帯では驚異の65%という市場シェアを獲得しています。
さらに登山ブーツ市場でも65%のシェアを達成し、業界のリーダーとしての地位を確固たるものにしました。この成功の背景には何があるのでしょうか。
これらの数字は、単なる市場の独占ではありません。世界中のクライマーたちが、自らの命を預ける道具として選んだ結果なのです。
4世代100年続くラ・スポルティバの家族経営が大切にしていること
創業から96年、デラディオ家による家族経営は現在4代目に受け継がれています。「私たちの原動力は情熱であり、その情熱は山への愛である」という企業理念は、世代を超えて変わることなく守られ続けているのです。この一貫した価値観こそが、ラ・スポルティバの強さの源泉となっています。
CEOから製品開発まで家族で守り続ける理念
現在もデラディオ家の経営参画は続いており、創業家の孫であるロレンツォ・デラディオがCEOを務め、娘のジュリアが営業・マーケティングを、息子のフランチェスコが製品開発を担当しています。この家族経営による一貫性が、ブランドの魂を守り続けているのです。
興味深いのは、技術の継承も家族の枠を超えて行われていることです。設計チームのマッテオ・ジェリッチは、ラ・スポルティバの歴史的モデル(Kendoなど)を手がけた父の技術を継承しており、「家族の伝統は継続し、世代を通じて受け継がれた80年の経験を活用できる」と語っています。
この世代を超えた技術と情熱の継承により、創業者の価値観が薄まることなく、むしろ進化しながら受け継がれているのです。
イタリア製造にこだわり続ける本当の意味
コスト削減のために生産拠点を海外に移すメーカーが多い中、ラ・スポルティバは頑なにイタリア製造を守り続けています。これは単なるブランディングではありません。
イタリアには世界の高級靴ブランドの30.7%が集中しており、その技術と伝統は他国では再現できないものなのです。イタリア製造にこだわる理由は明確です。
現在でも輸出比率80%超という国際競争力を持ちながら、「Made in Italy」の価値を体現し続けているのです。
地球への恩返しとして始めた持続可能な取り組み
ラ・スポルティバの環境への取り組みは、マーケティングのためではなく、ドロミテの自然と共に生きる企業としての責任から生まれています。2018年の実績では、297,000リットルの水節約と11,000kgのゴム廃材リサイクルを達成しました。
持続可能性への具体的な取り組みは多岐にわたります。
これらの取り組みは、曾祖母を救ってくれた地域への恩返しという創業の精神と、美しいドロミテの自然を次世代に残すという使命感から生まれたものなのです。
【まとめ】ラ・スポルティバ(LA SPORTIVA)が歩んできた歴史
吹雪の夜の約束から始まったラ・スポルティバの物語は、96年の時を経て、世界中のクライマーと登山家の足元を支える存在へと成長しました。創業者ナルチソ・デラディオの「私は決して止まらない」という言葉は、4世代にわたって受け継がれ、革新的な技術開発の原動力となっています。
これらすべてが、クライミングシューズ市場で65%という圧倒的シェアを生み出しました。
しかし、ラ・スポルティバの真の価値は数字では表せません。ドロミテの山々と共に生き、イタリア製造にこだわり続け、地球への恩返しとして持続可能な取り組みを推進する。この姿勢こそが、世界中のクライマーから愛され続ける理由なのです。
一足のシューズに込められた情熱と技術、そして山への深い敬愛。ラ・スポルティバは、これからも山を愛する人々と共に歩み続けることでしょう。