ウルトラライトハイキングの世界で「伝説」と呼ばれる男がいます。彼の名はグレン・ヴァン・ペスキ。土木技師として働く普通の父親だった彼が、息子とのボーイスカウト活動をきっかけに、32kgもの重荷を背負ってシエラネバダ山脈を歩いた経験。その苦痛から生まれたのが、今や世界中のハイカーに愛されるゴッサマーギアです。
「Take Less. Do More.(より少なく持ち、より多くを為す)」という哲学のもと、蜘蛛の糸のように軽くて強い装備を作り続けてきたゴッサマーギアというブランド。起業家になるつもりなど全くなかった一人の男が、なぜウルトラライトムーブメントの中心人物となったのか。
そこには、型紙の無償公開から始まった温かなコミュニティとの絆、そして人生そのものを変える深い哲学がありました。
息子のボーイスカウトがきっかけで始まったゴッサマーギアの誕生秘話
ゴッサマーギアの始まりは、壮大なビジネスプランからではなく、ごく普通の父親が息子と過ごす週末から生まれました。土木技師として働いていたグレン・ヴァン・ペスキが、まさか自分が後にウルトラライト界の伝説となるとは、当時の彼自身も想像していなかったでしょう。
土木技師グレン・ヴァン・ペスキは起業家になるつもりなんてなかった
グレン・ヴァン・ペスキは、カリフォルニア州カールスバッドで働くコンサルタント土木技師でした。大学を首席で卒業し、測量士としても活躍する彼は、典型的な起業家のイメージとはかけ離れた存在です。彼自身も「自分はただのいじくり屋で、ごく平均的な男だ」と語っています。
1990年代半ば、長男ブライアンがボーイスカウトに参加したことをきっかけに、グレンは若い頃以来となるバックパッキングの世界へ戻ることになりました。当時の彼にあったのは、息子と自然の中で過ごしたいという父親としてのシンプルな願いだけだったのです。
32kgの荷物を背負ったシエラネバダでの苦痛が運命を変えた
グレンは地元のREIで、当時「標準装備」とされていた一式を揃えました。その中には、空の状態ですでに約3.2kgもある重いバックパックも含まれていました。シエラネバダ山脈でのボーイスカウトの旅で、彼の荷物は実に32kgに達したといいます。
この重装備がもたらす肉体的な苦痛は、彼の人生を変える決定的な転機となりました。そんな時、隊のスカウトマスターである友人リード・ミラーが、レイ・ジャーディンの著書『PCTハイカー・ハンドブック』を紹介してくれたのです。
装備を軽くすることでハイキング体験そのものを豊かにするという革命的な思想に、グレンは深く共鳴していきます。
型紙を無料公開したら注文が殺到してしまった
幸いにも母親から裁縫の基本を教わっていたグレンは、レイ・ジャーディンのデザインを参考に自身初となるバックパック「G1」を縫い上げました。その後G2、G3と改良を重ね、完成したG4の型紙を、彼はインターネット上で無償公開するという画期的な行動に出ます。
ユーザー自身に作ってもらうつもりだったのですが、製作依頼のメールが殺到してしまいました。最初は断っていた彼も、欲しくても作れない人に申し訳なく思い、ついに商業生産を決意します。
最初の注文は50個でしたが、グレンは「何年もガレージに在庫を抱えることになる」と考えていました。しかし需要は予想をはるかに上回り、瞬く間に完売したのです。
ゴッサマーギアというブランド名に込められた蜘蛛の糸の哲学
ブランド名には、創業者の想いや製品の本質が込められているものです。ゴッサマーギアという名前もまた、単なる響きの良さではなく、深い意味を持って選ばれました。蜘蛛の糸のような繊細さと強さを併せ持つこのブランドの命名には、美しい物語があります。
なぜ「GVP Gear」から「Gossamer Gear」へ名前を変えたのか?
1998年、グレンが最初に立ち上げた会社は「GVP Gear」という名前でした。これは創業者の名前「Glen Van Peski」の頭文字をそのまま使ったシンプルなものです。グレン自身も「Gは単に私の名前の頭文字だった。自分の手作り品が何かになるとは思っていなかった」と謙遜して語っています。
しかし2004年、会社は大きな転換期を迎えました。単なるパックメーカーから、総合的なウルトラライトギア企業へと成長する中で、ブランド名も「Gossamer Gear」へと生まれ変わったのです。この変更は、個人のガレージプロジェクトから真のブランドへの進化を象徴する重要な節目となりました。
軽くて強い蜘蛛の巣が象徴するものづくりの本質
「Gossamer」という言葉は、中世英語に由来し蜘蛛の糸や蜘蛛の巣を意味します。同社のウェブサイトでも説明されているように、この言葉が表すのは次のような特性です。
蜘蛛の糸は、その細さからは想像できないほどの引張強度を持っています。この自然の驚異こそが、ゴッサマーギアの製品哲学である「軽さと強さの両立」を完璧に表現しているのです。単に軽いだけでなく、トレイルでの過酷な使用に耐える強度も備える。この二律背反を解決することが、ブランドの使命なのです。
日本語の「雲」と「蜘蛛」をつなぐKumoパックの美しい物語
ゴッサマーギアの人気モデル「Kumo 36」の命名には、ブランドの重要なパートナーである日本のウルトラライトコミュニティへの敬意が込められています。
日本語で「雲」を意味する「Kumo」という名前ですが、実はもう一つの意味があります。日本語の「蜘蛛」も同じく「クモ」と読むのです。漢字で見ると「雲」には「蜘蛛」と共通する文字が含まれており、この言葉の選択は偶然ではありません。
空に浮かぶ軽やかな雲と、強靭な糸を紡ぐ蜘蛛。この二つのイメージを重ね合わせた絶妙なネーミングは、ブランドの本質を見事に表現しています。
「Take Less. Do More.」ゴッサマーギアが提唱する生き方の革命
ゴッサマーギアを語る上で欠かせないのが、「Take Less. Do More.(より少なく持ち、より多くを為す)」という哲学です。これは単なるマーケティングスローガンではなく、創業者グレン・ヴァン・ペスキの人生観そのものであり、ブランドの魂となっています。
荷物を軽くすることは禅の境地に近いものだった
グレンは、ウルトラライトの本質を日本の寺院を訪れた際の経験になぞらえ、「禅のようなもの」と表現しています。彼にとってウルトラライトとは、極限まで無駄を省くことを意味していました。
しかしそれは単なる削減ではありません。持っている物すべてが機能的に働き、不必要なものは何ひとつない状態を目指すものです。
重い荷物はハイカーの意識を背中の重さや肩の痛みに縛り付け、目の前にある木々や蝶、雄大な山々の美しさを見過ごす障壁となってしまいます。装備を軽くすることで物理的な負担を減らすだけでなく、精神を解放し、自然との一体感を深めることができるのです。
ハイキングのスローガンが人生の哲学になるまで
「Take Less. Do More.」という哲学はトレイルの上だけに留まりません。グレンは自身の著書『Take Less, Do More』の中で、この思想が人生のあらゆる側面に適用可能であることを説いています。
バックパックの重量を減らす過程で得た教訓は、人生の重荷を軽くするための知恵でもありました。彼が本の中で伝えているメッセージには、次のようなものがあります。
さらに注目すべきは、この本の収益がすべてパシフィック・クレスト・トレイル協会に寄付されているという事実です。
創業者グレンが皿洗いのバイトをする本当の理由
現在グレンは、オレゴン州ベンドのSparrow Bakeryで皿洗いのパートタイムの仕事をしています。「成功した企業の創業者がなぜ皿洗いを?」と疑問に思うかもしれません。
しかし、それは経済的な理由からではありません。彼の行動は、ゴッサマーギアの理念でもある「Take Less. Do More.(より少なく持ち、より多くを為す)」という哲学の実践なのです。
不要なものを取り除くことで本質的な価値が生まれるという考え方であり、彼はこの仕事を「誰もが重要な役割を担っていることを思い出させてくれる」と語ります。皿洗いのパートタイムの仕事は、彼が大切にする謙虚さ、奉仕、そしてコミュニティへの貢献を体現する行為なのです。
フレームを再導入したMariposaがウルトラライト界の常識を覆した理由
ゴッサマーギアの歴史において、Mariposa(マリポサ)の登場は画期的な転換点となりました。ウルトラライトの黎明期、フレームやパッド入りのヒップベルトは不要な重りとして排除されるのが常識だったからです。しかしゴッサマーギアは、あえてその常識に挑戦しました。
PCTハイカーたちが絶賛したゴッサマーギアの英断とは?
レイ・ジャーディンが提唱した純粋主義的なウルトラライトの時代、フレームやしっかりとしたヒップベルトを持つバックパックは、軽量化の敵とみなされていました。
そんな中、ゴッサマーギアはMariposa(マリポサ)にフレームとクッション性の高いヒップベルトを再導入したのです。この決断は当時、一部のウルトラライト純粋主義者から「後退ではないか」と物議を醸しました。
しかしこの英断は、PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)のような長距離トレイルで、数日分の食料を運ぶハイカーたちの現実的なニーズに応えるものでした。数オンスの重量増を補って余りあるほどの快適性と荷重運搬能力の向上は、まさに福音だったのです。
最軽量を追わず快適性とのバランスを選んだものづくり
ゴッサマーギアの技術的な強みは、「快適性を重視したウルトラライト」という独自の立ち位置にあります。彼らは最軽量という称号を追い求めるのではなく、ハイカーが実際にトレイルで感じる快適さを優先してきました。Mariposa(マリポサ)の設計思想には、次のような特徴が現れています。
このアプローチにより、従来の重いパックから劇的な軽量化を実現しつつも、ユーザーにとって重要な快適性を犠牲にしていません。
取り外せる背面パッドが体現するULの基本理念
Mariposa(マリポサ)の背面パッドは、取り外して休憩時の座布団としても使えるようになっています。この一見シンプルな機能が、実はウルトラライトの基本理念を見事に体現しているのです。
一つの道具に複数の役割を持たせることで、全体の荷物を減らすという考え方。それこそが「より少なく持ち、より多くを為す」という哲学の実践です。
さらにフレームも取り外し可能な設計となっており、荷物の量や好みに応じてカスタマイズできる自由度の高さも魅力となっています。結果としてMariposa(マリポサ)はPCTハイカーの間で絶大な人気を博し、現在に至るまで最も使用率の高いパックの一つであり続けているのです。
なぜ多くのハイカーはZpacksではなくゴッサマーギアを選ぶのか?
ウルトラライトギア市場には、個性豊かなブランドがひしめいています。その中でゴッサマーギアが独自の地位を築いているのは、主流のアクセシビリティと先鋭的なガレージブランドの革新性との間の絶妙なバランスを保っているからです。
Robicナイロンという素材に込められた実用主義の思想
ゴッサマーギアのバックパックの心臓部には、カスタム仕様の70D、100D、そして210DのリサイクルRobicナイロンが使用されています。Robicナイロンは、その重量に対して非常に高い引張強度と耐摩耗性を誇る素材です。この素材選定は、ウルトラライトギア市場における重要な差別化要因となっています。
ZpacksやHyperlite Mountain Gearといった競合他社が、究極的な軽さを求めてダイニーマ・コンポジット・ファブリックを主力素材として採用する一方、ゴッサマーギアはRobicナイロンを選択しました。これは意図的なトレードオフであり、わずか数百グラムの重量増で、より高い耐久性と手頃な価格、そしてフィールドでの修理のしやすさを重視した結果なのです。
ガレージブランドの心を持ちながら万人に開かれた存在
ゴッサマーギアの魅力は、その出自にあります。グレンのガレージで生まれ、ハイカーコミュニティの声を聞きながら成長してきたブランドは、今も「ガレージブランドの心」を持ち続けています。年商75万ドルに成長した現在も、約11名という小規模なチームで運営され、製品開発にはハイカーからのフィードバックが活かされています。
一方で、従来の重いバックパックからウルトラライトの世界へ足を踏み入れようとする初心者にとって、いきなりZpacksのような簡素なバックパックに移行するのはハードルが高いものです。ゴッサマーギアは次のような特徴で、その架け橋となっています。
「親しみやすい専門家」として築いた独自のポジション
ゴッサマーギアは、単に競合と争っているのではなく、独自のカテゴリーを創造しています。それが「親しみやすい専門家」というポジションです。彼らは、ガレージブランドとしてトレイルで試された信頼性を提供しながらも、より広い層にアピールする快適性と使いやすさを兼ね備えています。
OutdoorGearLabでは、Mariposa 60が23モデル中「総合ベスト」ウルトラライトパックに選ばれました。Backpacker Magazine元編集者のマイケル・ランツァも、Mariposaを「欠点がほとんどない、ウルトラライトバックパックに求める要素をほぼ全て備えている」と評価しています。
参考:The Best Ultralight Backpack
ウルトラライトへの移行を妥協ではなく、あらゆる面でのアップグレードとして感じさせてくれる。それがゴッサマーギアの真の価値なのです。
【まとめ】ゴッサマーギア(GOSSAMER GEAR)が歩んできた歴史
ゴッサマーギアの物語は、息子とのボーイスカウト活動から始まりました。32kgの重荷に苦しんだ土木技師グレン・ヴァン・ペスキが、自分自身の問題を解決するために縫い上げた一つのバックパック。それが型紙の無償公開を経て、やがて世界中のハイカーに愛されるブランドへと成長していったのです。
「Take Less. Do More.」という哲学は、単なる装備の軽量化を超え、人生をより豊かに生きるための指針となりました。フレームを再導入したMariposa(マリポサ)は、ウルトラライトの常識を覆し、快適性と軽さの両立という新たな道を切り拓きました。
ガレージブランドの心を持ちながら、万人に開かれた存在であり続けるゴッサマーギア。その歴史は、一人の男の誠実な想いが、いかに多くの人々の山歩きを変えていったかを物語っています。